2021-11-03

IT翻訳は初心者向きなのか?

プロの翻訳者になるにあたり、専門分野を持つことはほぼ必須と言えます。
専門分野を持たない、雑食の翻訳者もいるかもしれませんが、基本的に翻訳者は特定の分野に特化しつつ、専門分野を中心とした活動をしています。

これからプロを目指す人にとって、どの分野に注力していくかは大きな懸念事項で、コンサルティングでも分野の決め方などは非常によく相談が寄せられます。
今までの自分の経験などがメジャーな分野にマッチしている場合は、まずはその分野に進んでいくことがベターですしあまり悩むこともないかと思います。しかし、これと言って主要な翻訳分野に活かせそうな経験、知識があまりないと感じている人にとって、分野選びと言っても何が自分に向いているかはなかなかわからず途方に暮れる人も少なくないでしょう。

そんな中、今日の話題は「IT翻訳者は初心者向きか?」ということですが、なぜこのようなトピックを取り上げるかと言うと、ITをプロの翻訳者への入り口として選ぶ人が一定数存在することと、業界的にそういった風潮が(結果的に)あるような、ないような、そんな印象がなきにしもあらずなので取り上げてみます。

IT分野と翻訳者について

私が翻訳コーディネーターをやっていた頃、いろいろな分野で翻訳者の募集を行いましたが、応募者の中に未経験の割合が多かったのは確かにITだったと思います。
改めて、なぜITに応募が多かったのか考えてみました。

  1. 単純に案件、求人数が多い
  2. 未経験可の案件が比較的多い
  3. 他の分野よりイメージがしやすい?

こんな感じだと思います。まず1ですが、ITはとにかく案件の数が多く、大規模なプロジェクトも数多くあります。また、ソフトウェアやシステムの開発は、製品がリリースされてからも続くので長期に渡る案件が多く、一度そういったプロジェクトに入り込むと安定感があるのも特徴です。とにかくコンテンツは大量にあるので、翻訳会社も経験豊富な翻訳者を求める一方で頭数を揃えていく必要があるわけです。そういった中で、案件によっては新人を採用して育てていく、といったケースはあると思います。これは2につながっていきます。

次に2ですが、特にクライアントが大企業で、大量の翻訳者が長期に渡って必要になってくるケースにおいて未経験可の募集がでることがあります。ITは他の分野と比べて市場規模そのものが大きいので、相対的に件数も多くなるのだと思います。内容は基幹システムのUIやオンライヘルプ、マニュアルなどの翻訳が主で、これらは比較的原文の英語も平易なもので構成されていると言われています。難易度の高いマーケティングやビジネス文書ではあまりそういったケースはないかもしれません。

最後に3つ目ですが、やはり他の分野と比べると、日常の生活に近い内容の素材を扱うことが多い、という背景もあると考えています。ヘルプやマニュアルは日常的に目にすることもありますし、ソフトウェアを使っていれば当然UIを目にする機会もあります。もちろんITの中にも高度な専門知識を要する案件はたくさんありますが、例えば一般の人向けのソフトウェアに関連する文書であれば、まったく検討もつかない分野に挑戦するよりは、なんとなく感が働く、というのは現実としてあると思います。

という感じで、確かに他の分野と比べると若干ハードルは低いと言えると思います。
ただし、そんな状況も刻一刻と変わりつつあります。

技術の進歩の影響を最も受けているのがIT翻訳

先ほど書いたように、確かに初心者にとって狙いやすい案件がIT翻訳には存在します。しかし、それらの案件は昔と比べると減少傾向にあると考えています。

その理由は「機械翻訳の導入」と「翻訳者志望者の増加」の2つです。

私が翻訳業界に入った2000年代後半頃はIT翻訳の需要がどんどん増加していた時期で、一年中翻訳者を大量に募集しては採用をしていました。とにかく翻訳者が足りないので、経験がなくても見込みがあれば積極的に採用していました。ITに限らずネットが普及し始めた頃から産業翻訳の需要はどんどん高まり続けていて、フリーランスの翻訳者がものすごく増えていた時代だったと思います。

需要そのものは2020年代になった今も減っておらず、むしろ増え続けているのですが、2010年代はじめ頃から機械翻訳を使ったポストエディット(Post Edit=PE)の案件が徐々に翻訳業界で試されるようになってきました。

そこで真っ先に目をつけられたのがIT翻訳のヘルプやマニュアルと言った、「初心者向き案件」(ここではあえてそのように表現します)でした。これらのコンテンツはもともと文章自体があまり複雑ではなく、また改定を繰り返していくタイプの素材なので、元々TM(トランスレーションメモリ)を使用した翻訳のデータベース化→再利用というワークフローに最適化されているものがほとんどでしたが、さらに機械翻訳ともある程度相性が良いということで、プロジェクトをポストエディットに移行するクライアントが増えてきました。

翻訳とポストエディットは似て非なるものです。必要な技術も労力も違うので一概に比較することはできませんが、とにかく今まで大量の翻訳者を投入して人海戦術で翻訳してきた大規模案件に、機械が割り込んできた形になります。

プロジェクトがポストエディット化されると何が起きるかというと、1人が処理できる分量が増えるため、必要な人員が減ります。また、ポストエディットはまだ未成熟なワークフローであるため、すべての翻訳者がポストエディットをできる、というかむしろやりたいと思っている、というわけではありません。

この流れは現在も続いていて、今でも人間が翻訳している案件はあるものの、難易度の低い案件の人力翻訳の比率は確実に減り続けています。そうなると今までいた翻訳者、しかも「優秀で経験豊富な翻訳者」だけで間に合ってきてしまうわけです。そのため、わざわざ未経験者を積極的に採用する必要性が薄れてきていて、初心者だけでなく、これまで一定の経験を積んできた人でも実力がなければ仕事が取れなくなっていくという「淘汰の時代」になりつつあると感じています。

そのような現状から、昔ほどIT翻訳への参入は簡単なものでなくなってきています。
IT翻訳関連のトライアルは、以前はシンプルなテクニカル文書やUIだけのトライアルも多かったのですが、最近のものは本当に難しい物が多いです。今のIT翻訳者に求められるのは、機械翻訳の影響がおよびにくいマーケティングやビジネス文書にも高度に対応できる高度な技術と知識を持ったエキスパートという風潮になってきている感じがします。

そもそも「初心者向き」という考えはするべきではない

ここまで書くと、IT翻訳という分野が非常に厳しく、安易に初心者向きとは言えない、と考える人がいると思いますが、そもそも「翻訳者」という職業自体がエキスパートにしか務まらない仕事です。

むしろ今までの状況が拡大する需要や技術に翻訳者の供給が追いついていなかっただけで、実力や経験不足では簡単にはいかない、という現状が本来の翻訳業界の姿だと言えるのかもしれません。

ITという分野が比較的他の分野と比べて新規参入者の受け皿となっていたのは事実だと思います、現在でも昔ほどではないにしろそういった部分は多少あるかもしれません。

自分が何かに精通しているわけでもなく、専門分野が決められないという時にひとまずITの勉強をしたり、トライアルを受けてみるというのは悪いことではないと思います。とっつきやすさはありますし、案件数も多いので分野を決めかねているのであればITは選択肢としてはありだと思います。その一方で、参入のしやすさ故に、それが自分に合っていなかった時に持続的にその分野を伸ばしていくのが困難になるリスクも考えておく必要があります。そのままITで一流になれる人ももちろんいますが、簡単だけど単価が安い案件しか取れなかったりして伸び悩んでしまうようではそれは「専門分野」と呼ぶことはできないでしょう。

つまり「初心者向き」という観点で分野を選ぶのではなく、まずはいろいろな分野の翻訳に可能な限りたくさん触れて、その中から自分にあった分野を目指すというのがベターな分野の選び方ではないか、と私は考えています。

せっかくプロの翻訳者になるのであれば、情熱を持って学んでいける分野を見つけていってほしいですね。

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